…前回からの続き
この本を読んで個人的に一番衝撃を受けたことは、「心は原因ではなく心もまた結果である」という視点。今までずっと目の前の現実(結果)をつくりだす原因は自らの心にあると思ってきたので、自らが望む現実や幸せを手にするために自分の心を磨くということをずっと昔からやってきました。そうやっていくつかの望みや願いは今まで歩んできた人生の中で実際の形になったし、このことは自己啓発書や精神世界でよく言われている王道中の王道の法則だと信じて疑いもしなかったです。またスピリチュアルの世界でよく言われる、一人一人が自らの魂を磨く霊性を高めていく、このことが宇宙全体の進化に寄与、貢献することだと思っていました。
ここで今回のこの「縄文についての正しい再認識」シリーズの①で書いた自分なりの歴史認識の内容を振り返ってみます。完全調和社会の縄文時代が何万年も続いたあと、宇宙の中心を離れてしまった支配的な人(存在)達が人々を支配管理する道具として宗教を広めていきましたが、これが2〜3000年前のこと。
自分は、ある特定の宗教を信じていたり信者でもない、いわゆる無宗教者です。でも目に見えるものだけしか信じない唯物論者ではないし、むしろ目に見えない世界があると強く思ってるし、世の中の宗教に関しても例えばキリスト教や仏教、神道などいろいろとありますが、それ自体の教えはそれぞれ本当に良いことを言ってると思っています。だから現在、世界中に様々あるその宗教自体を今まで否定したり疑ったりしたことはありません。
でも、自分なりの歴史認識がはっきりと見えてきた頃に少し疑問が湧いてきました。いろいろな宗教や教えが世界にはありますが、それらに共通しているのは、『誰か偉い人(存在、神)がいてその下に人々がいる。そして人々は未熟で至らなく不完全である。だから一人一人が偉い人(存在、神)の教えに従い自らの心や霊性を高め磨いていく。』という構図。
2〜3000年前にやって来た支配的な人(存在)達が、誰かが言った良い教えを利用して、人々を支配管理するための道具として宗教というものをつくったのだとしたら??
そしてその流れが現在の2020年の社会にもずっと続いているのだとしたら??
宗教を始めとして社会全体のありとあらゆる場所にそういう支配管理する枠組みが、誰もが疑いもしないまま今現在も当たり前に存在し続けているのだとしたら??
本の最後のほうで、縄文時代の長老が語る言葉と著者の内面の描写としてこう記されています。
私たちにはあたり前の法律や国境、あるいは権力も、この枠組みが発展した見えない枠組みだ。それらがなければ自身を守ることができないと私たちは考える。だが、彼らの世界には、これらがない。(中略)私たちの社会は、今や仕切りと枠組みであふれかえり、それでもさらにそれらを必要としている。ここの人々は違う。ここには、自然界との間にも仕切りが存在しない。そうだ、彼らは宇宙と同じだ。(中略)彼らの社会は、宇宙と同一なのだ…
「あなた方の世界は、国家という幻想により、争いを作り上げている。大地には仕切りは存在しない。あなたは、あなたの社会の人々がいとも簡単に社会権力に洗脳され、操られてしまうことに失望してきたはずだ。また、それをどうしたら克服できるのかを知りたいと思ってきたことを我々は知っている。その理由もすでにおわかりのはずだ」
たしかに私は今、理解している。洗脳支配の裏にあるものは枠組み心理と依存なのだ。自立力のない依存心理の個人は、コントロールされていることにさえ気付くことができないのだ。
「我々には社会的洗脳が存在しない。対立次元を超えた統一空間内では、存在による存在の支配は発生しない。中心不在の空間世界は、回転力を失ったコマ同様に外界の力に流され、またそれゆえにエゴへの依存が生まれる。
すべての思想的支配は、本質では、中心力(フォース)の喪失から生まれる。不統一空間にあるあなた方の世界では、常に中心ならざる中心、すなわち権力なるものが生じている。正しく見える正義こそが、あなた方をその力に引き込んでいる。真理というものは、善悪二元論を超えた統一次元にしかないのだ」
…次回に続きます。