『縄文』についての正しい再認識⑥

私たちは誰もがこの世に生まれたばかりの赤ちゃんの頃は誰もが宇宙と繋がっているし宇宙そのものの存在であると言ってもいいと思います。ところが次第に大きくなって成長していく中で、親や周りの人達から現社会の中で善や良しとされる様々な観念を刷り込まれ、そういう社会の一つの枠組みの中で誰もが大人になっていきます。

 現在、5歳の娘と1歳の息子の子育て真っ只中ですが、毎日のふとした時に、親の思う通りに子ども達をコントロールしようとしてる自分がいることに氣がつきます。特に現在、保育園に通っている娘に対して、時間通りにご飯を食べさせて遅刻させないようにまたその他様々な場面で、親の思うように動いてもらうために「〇〇で〇〇だから〇〇しなさい」「〇〇で〇〇だから〇〇してはダメ」などと理路整然と説き伏せてみたり、飴と鞭を使い分けるような軽い脅しや脅迫的な物言いで子ども達をコントロールしようとしてる自分に氣が付きます。まあいわば無意識的に自分が親に育てられた時と同じように、いま子ども達と接しているわけです。(この辺のことは夫婦間でいろいろと話し合ったり、モンテッソーリ教育などを勉強したりして、夫婦間でいろいろ試行錯誤して今では子育ての方法もだいぶ変わっていますが)

上で紹介したのは自分の子育ての一例ですが、このように現代の社会ではとにかく何をするにしても物事を理屈や理論的に思ったり考えたりしています。このことは現代社会の中のすべての物事の前提として当たり前にあることなのですが、以前も書きましたが縄文時代にはこういった人間の思考は補助的なものだと捉えられ、子ども達への教育として今の社会のような観念教育はなかったそうです。前回の記事で紹介したように、現代社会では誰かがつくりだした枠組みの中に誰もがすっぽりと収まっていて、収まっていることすら氣付かずにその枠組みがすべてだと疑いもせず、そして人にその枠組みを押し付けて、大きな枠組みの中にさらにたくさんの小さな枠組みをつくり暮らしている状態です。

以前、人類を支配管理する存在のことを批判して自分はもう目覚めているから大丈夫だ、と思っている時期がありましたが、子育てを通じて氣づくのですが、自分も同じような手法(飴と鞭の使い分け、脅迫観念、枠組みの押し付け…)で自分の子ども達を支配管理しようとしているじゃないかと、笑。枠の中にまだまだ自分も収まっていたのです。

日本語の言霊的に「わく」という言葉を自己解析すると、わ(輪、環、和)+く(句、くくる、区切る、苦)と分析します。宇宙には区切りはないので、枠の中にいる限りはどんな方法をとっても宇宙と調和した社会、ミロクの世の実現は不可能なんだと思います。

枠の外に出るためには、わ(輪、環)の中にある中心(ゼロ)と繋がる、結局これしかないんだと思います。

ではその中心と繋がるためにはどうすればいいのか?という疑問が湧いてきますが、紹介した本の中にそのやり方は次回作で明らかにするという記述がありました。おそらく、今のこのタイミングでは、人類が真の調和社会を実現するために、今まで表に出て来なかったかつての縄文の叡智というものがあった、そのことをまずは知ることが重要なのだろうと思います。それを実際の社会に反映するやり方を知るのはもう少し先でいいのかもしれません。

この本を読んで「心は原因ではなく結果である」という視点が自分なりにはしっくり来たので、今までやってような『自分の心を見つめ、心(意識)で心(意識)をコントロールする』ということをやめました。霊性を高め人間性を磨いていくために、自分の心を常に見つめて良くない感情を自分でコントロールするということを20年近くやってきたのです。でもそういうことを辞めてみるとと逆に心が軽くなったような氣がして、「あっ、今、心が乱れているな」と感じた時には、とにかく自分のエネルギー(氣の流れ)、体感覚を整えることに焦点を当てています。そうすると、エネルギーが整うと不思議と心も整っていくのです。(まだまだ実践あるのみですが)

例えば心の中に何か問題があったとして、それを心でコントロールするのはそれは同じ次元の中でのことなのでやはり限界があり、真に解決するためには違う次元に行かないといけません。縄文以降この2、3000年間、人類は宗教や制度や法律や科学やスピリチュアルやその他いろいろな方法を使い平和で調和的な社会を実現するために歩んできました。目に見える世界のことだけですべてを解決しようと歩んできました。円が360°ならば、半円の180°だけで。けれど、今ある様々な問題を解決し真の調和社会、ミロク(36、360°)の世の実現のためには、誰の目の前にもある今までは何もないと思われていた空間(こちらが本当の目に見えない世界)に、答えがあったのだと知ることではないでしょうか。

「ま」という言葉を言霊解析で自分なりに分析すると「間、真、魔」という意味で表すことができます。よくディ〇ニー映画などで魔法という言葉が出てきますが、確かに縄文以降の2、3000年間は魔法の世界だったのかもしれません。けど、もうこれからは「まほう」と言えば「間法、真法」と表せる世界になるのではないかと。

今まで縄文についていろいろ書いてきた内容を振り返ると「縄文=善、弥生以降=悪」と捉えがちですが、それでは善悪二元論の同じ次元に留まったままです。そうではなく、人類と地球の真の霊的進化のために、やはり弥生以降の2、3000年間の時間と経験が人類に必ず必要だったのではないかと。

いや〜長々と書いて来ましたが、なんとかまとまりました。今日は2020年12月21日、冬至です。冬至という日は縄文時代には一年で一番重要だった日のようで、この日は土器や土偶などを壊し土に還す、土に還すとは無(ゼロ)と繋がる、すなわち永遠と繋がるために。新しい一年を迎えるためにつまりは一年の総デトックスです。

今年の冬至は一年どころか何千年、何万年もの長い時間の節目になるように思います。そう言ってる人もたくさんいます。とにかく自分的にはこの日までに縄文シリーズのブログ記事を書き終えることができて良かったです、笑。今思ってることを出し切りました。

最後に、紹介した本の中の縄文人の長老の言葉をご紹介して縄文シリーズの記事を終わりとします。

「宇宙は、存在という観点から見れば、それはあなた方が理解するように、無だ。しかし、命という観点からは有なのだ。物質に焦点を合わせるあなた方には、宇宙は、『無』から『有』が生じているように見えるだろう。そこでは、すべては、はかない。すべては、分離している。すべては孤独だ。その錯覚が、あなた方の物理学の基礎にある。

私はあなた方に理解可能な認識で伝えてきたが、空間(MA)というものを基準に見る我々の目には、この世界は、それとはまったく逆なのだ。

我々の目には、この世界は、空間という『実体』の上に成立しているのだ。

この子宮空間体のすべては、中心なる『0(無)』へと向かう性質をもっている。

その焦点力により、個、すなわち有限界の命は生まれるのだ。

我々にとって、存在とは、全包容的無の力だ。

そしてその力こそが、HARI(フォース)なのだ」