40代後半、家庭を持ち妻も子もいる男が、それでも「音楽」を人生の中心軸に置いた、その本当の理由



今からちょうど30年前の1992年の4月のとある日、自分の中では忘れられない1日があります。

その日は当時通っていた大学内で新入生歓迎祭というものが行われ、所属していた劇団サークルでのステージ出演を終え、サークルのみんなと京都市北区の大学近くにある銭湯へと行きました。みんなより一足先に風呂から上がり、脱衣場で夜のテレビニュース観ていた友達の木村君が、浴場の扉を突然すごい勢いで開け、シャワーで髪の毛を洗っていた最中の自分にこう叫びました「おい、志水!尾崎が死んだ…」。

最初は何が起きたのか理解不能でしたが、時間が経つにつれて何が起きたのかが理解できるようになりました。その日、歌手の尾崎豊が亡くなったということが。

高校時代、悩み大き若造だった自分にとって尾崎が歌う歌は、当時の自分の心の支えになっていたのです。

大学卒業後の進路を考える際に、その日の出来事が自分の中で大きな影響を与えたんだと思います。周りのみんなが就職活動を始めた頃、自分は卒業後にミュージシャンを目指しプロになるという夢を追いかけることなりました。「夢を追いかける」…言葉の響きはいいけれど、ここからが茨の道の始まりでした。

音楽でプロを目指すとは言え、小中高と音楽とは無縁の暮らしを送ってきたし、その時、楽器もろくに弾けないし、当時の自分を知る人ならみんな知っていましたが、カラオケに行っても歌が上手いと一度も言われたこともないし、リズム感も人並み以下、アーティストのライブでよくある観客に手拍子を求められる場面では、自分一人だけが周りからリズムがずれていくぐらいのリズム音痴と、その時点でとにかく音楽的才能は皆無の人間だったのです。

普通の感覚ならば、そんな条件下の人間が音楽でプロを目指そうとは思いもしません。でも

自分の中で一つの確信めいた想いがあったんです。19歳になったばかりの時に大病を患い二か月間入院をして、その時初めて「死」というものと向き合い「死ぬ時に絶対後悔しない生き方をしよう」という、その後の死生観を持つことになった体験があるんです。その後ぐらいから、自分の頭の中で、既存の曲ではない誰も聴いたことのないようなオリジナルの旋律、メロディが勝手に流れるようになり、いつかこれを世に出さなくてはいけないという想いがあったからなんです。(なんせ若かったので思い込みも激しかったんだと思います、笑)

そして大学卒業後、東京に上京をしアルバイトをしながら20代のすべてをプロミュージシャンを目指す活動に費やしました。30歳になりバイト生活を脱却できる道がないかを模索しながらも音楽は続けていました。33歳の時、新宿駅で路上ライブをやっていた時、ある人から青梅市音楽フェスティバルという音楽祭出場のオーディションのチラシをもらい、その優勝者にはインディーズからCDが出せるという特典が付いていました。20歳から13年間音楽活動をやってきたけど一向に芽の出る気配はない、一地方都市の音楽祭で簡単に優勝するぐらいでないとメジャーデビューなんて夢のまた夢だと思い、このオーディションに落選したらもう音楽は辞めようと決め、自分の一番の自信曲をそのオーディションに送ることにしました。そして結果は一次選考で見事に落選。潔くきれいさっぱり、音楽の道を諦めることにしました。

その後デザイナーとして独立して、自営の仕事でもなんとかご飯が食べられるようになっていた36歳の頃、当時千葉県に住んでいたんですが、ひょんなことから千葉駅前にあったボイストレーニングの教室に通うことになりました。むかしから人に何かを教わるということがとにかく苦手で嫌いで、大学の受験勉強も塾や予備校に通うことなく独学で勉強したし、ギターも歌もその時まで何でも独学でやって来た人間だったんです。が、ボイトレに通い、自分では気づかなかったことをいろいろと教わって、歌が上手くなったような気がしたんです。すると自分の中で一度は諦めた音楽の道、自分の頭の中で鳴っている歌をやっぱり世に出したいという情熱が再びむくむくと湧き起こり、37歳で念願だったオリジナルCDを創ることが出来ました。それを多くの人に聴いてもらいたくてリヤカーにCDを積み東京から沖縄へと旅をしたのが2009年。41歳の時に再びリヤカーにギターとCDを積み込み日本一周旅をしたのは、もう皆さんご存知の通り。

その後42歳で結婚し子どもが出来、家庭を持つようになると、家のことや子育てに追われ、音楽をやろうなんて思いもなくなり、音楽への情熱はいつのまにかフェードアウト。でも本当は、家族のためにそんなことはやってはいけないと無意識に自分の中に封印をしていたんだと思います。そんな自分にある変化が起きたのは、二人目の子どもが生まれた47歳の時。

出産予定日のひと月前の妊婦検診で切迫早産の可能性を指摘され、大病院が近くにある下関市の実家で出産までは家族全員が実家での待機生活を余儀なくされたのです。

外での仕事も出来ず、家族全員の三食を作る以外はやれることも他になく、とにかく時間がたくさんありました。久しぶりにできたこの自由な時間が自分の今までの人生を振り返る時間となったのです。

出産予定日の直前の妊婦検診の日、妊娠中の奥さんを下関済生会病院へと車で送り、待合室の大きな窓から遠くに広がる山間の雄大な景色を眺めながら長い間ぼーっと考え事をしていました。

その時に降りて来たんです。

「自分は本当に何がやりたかったのか、自分はどう生きたかったのか」が。

まるでこれから生まれてくる息子に「父ちゃん、ほんとうの自分を生きていいんだよ」と言われたかのように。

「ほんとうの自分で生きる」とはどういうことか?

それはアンパンマンの歌にある『何のために生まれて、何をして生きるのか?答えられないなんて、そんなのは嫌だ♪』というフレーズのように、自らの魂の目的と合致した生き方をする、死ぬ時に後悔をしない生き方をする、ということかなと自分なりに解釈しています。

そして偶然にも、奥さんが出産予定の病院、息子が生まれてくる予定のこの病院とは何の因果か、むかし自分が19歳の時に大病を患って入院をしたのと同じ病院だったのです。

そして4月25日に息子は元氣に生まれて来てくれました。そうです、この日はちょうど30年前に尾崎豊が亡くなった日、音楽でプロを目指すきっかけになった自分の中での忘れられない一日と偶然にも同じ日にちなのでした。

ある画家が頭の中で素敵な絵を思い浮かべていても、筆とキャンバスがなければそれはただの空想で終わってしまいます。そして絵を描く技術がなければ、頭の中の絵を100%表現することは難しいです。

自分のことを振り返ってみるとこの30年間は頭の中に鳴っている音を「表現する技術」を学ぶ時間だったのかなと思います。(それにしても長い、笑)

子どもの頃にピアノを習ったり、もっと音楽に触れていれば良かったと何度後悔したことか。でも自分はこれで良かったんだなと今では思います。

まだまだ下手くそですが、音楽で人に表現するための最低限の技術は今ようやく付いてきたのではないかと思っています。逆にこれからも伸びしろがたくさんあって楽しみです。ようやく今スタートラインに立っている気がします。

音楽を人生の中心軸に置くと決めたのが息子が生まれた3年前の春。「音楽で生きていく」ということがいかに雲を掴むようにふわふわしたことなのかが自分が一番嫌と言うほど分かっています。だからこそ、地に足をつけてそれでも理想を追いかけ、死ぬ時に後悔しないように心の底から湧いてくる自らの想いから目を逸らないため、ほんとうの自分達で生きていくため、何度も逃げたくなったほど夫婦間での本気の話し合いをこの3年間重ねました。現実社会の中で、それでも自分達の理想を追いかける具体的方法を模索してきました。

(※近日中に音楽とコーヒーの移動販売車も開始します。)

音楽でプロを目指そうと決めてからちょうど丸30年。一度は諦めたけど息子の誕生がをきっかけに人生の中心に再び音楽を置くと決めて丸3年。ようやく目に見えるスタートラインに立った証として節目のこの2022年4月25日の日に、マサーヤンとしては二枚目のアルバム、マサーヤン&サキエとしては初となる『5曲入りミニアルバム「Love and Light」500円(税込)』を発売します。

「袖振り合うも多生の縁」という言葉があるように、今までの自分の人生の中で出逢ったすべての人、何らかのご縁のあったすべての人にアルバム出来たよー(涙)ってお知らせしたい氣持ちです(≧∇≦)

こんだけ長々と文章を書いてきて、最後はアルバムのセールスかよ(笑)!

と思われてもいい(笑)、このCDをほんとうにいろんな人に押し売りしたい(笑)

発売日:2022年4月25日(月) 
※ 4月16日 アースデイ向津具の会場と、4月23日、24日「音楽とコーヒーの移動販売車(music&coffee)」の出店会場(棚田の花段)で先行販売をします。

予約注文含め2022年4月25日までにご購入頂いた方の中から抽選で10名の方に「マサーヤン&サキエ オリジナルエコバッグ(600円相当)」が当たるキャンペーン実施中です!

↓現在、こちら予約注文、出来ます。
https://masasaki.thebase.in/items/61128551

https://masasaki.thebase.in/items/61128551